イザヤ42:10−16/Ⅰコリント15:1−11/ヨハネ20:1−18/詩編114:1−8
「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。」
(ヨハネ20:8)
ユダヤでは日が暮れると一日が終わり、同時に新しい一日が始まります。夜中の12時を待つことはないのです。
一本目
その日は準備の日でした。翌日は過ぎ越のまつりの中でもハイライト、特別な安息日です。その特別な日に、磔にされた遺体、穢らわしさの極みになった遺体が人々の目を引くのは良くないと考えて、ユダヤ人たちがその遺体を引き下ろすようにローマ当局に申し出ます。もう時間が迫っていたのです。
二本目
兵士たちが確認すると、確かに死んでいました。それでも念を押して脇腹を槍で刺すと、確かに大量の血が流れ出たのです。兵士たちも、ユダヤ人たちも、イエスが死んだことを確かに見届けたのでした。
アリマタヤのヨセフと、かつてイエスの下に密かにやってきたニコデモとがピラトに願い出て遺体を葬ります。没薬と沈香を混ぜた香油を塗り、亜麻布で包み、とにかく時間が迫っていたので、近かった場所に葬ったのでした。
三本目
安息の日は厳密に守られます。誰も必要以上に歩くこともできませんでした。当然、死体に触れるようなことはゆるされません。気になりながら誰も、その葬られた場所を訪れることはできなかったのです。
四本目
さらに一日が過ぎました。そこにはしらみはじめた空気の中を駆けてくる一人の女の姿がありました。彼女はこの時を待ちわびていたのです。一刻も早くあの墓に、あの遺体にたどり着きたい。時間が迫っていて、いかにも中途半端にしか葬ることができなかったことが気がかりで、早く行って丁寧に葬り直したかったのでしょうか。ところが彼女の願いを打ち砕くように、その遺体はそこになかったのです。何がどうなったのか、悲しみに打たれた目と頭では、そこで起きていることが全く理解できませんでした。彼女は急いで仲間たちのところへ引き返し、この悲しい出来事を伝えました。
知らせを受けた弟子たちは、その話がさっぱり要領を得ないので困惑しました。転げるように墓まで駆け込んだ二人の弟子が目にしたのは、なんとも不可解な出来事でした。ペトロがまず墓に入ると、あの遺体を包んでいた亜麻布、そして顔にかけられていた覆い。それが別々のところに丸めて置かれていたことを目にしたのでした。「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。」(ヨハネ20:8)のです。
五本目
いったい彼は何を「見て、信じた。」のでしょう。いや、見たのは彼だけではありません。1節ではマリアが見た。彼女は「墓から石が取りのけてあるのを見た」のです。走っていった二人の弟子のうち先に着いた方が5節では「身をかがめて中をのぞく」のです。見たのは亜麻布でした。そしてペトロ。彼は最初に墓に入り、亜麻布を見ました。その後、あの弟子が今度は墓の中に入って、それらを「見て、信じた。」のです。見たのは布ですが、遺体が無くなっていることが確実になりました。でも、では何を信じたのでしょう。
六本目
この箇所、新約聖書のギリシャ語では「見る」という単語が使われていますが、新約聖書の中では実に様々な意味で使われることばなのです。①見る、②感知する、③気づく、認める、発見する、④目・心を向ける、注意する、調べる、⑤経験する、⑥面会・訪問する、⑦ある場所を訪れる、などです。そして、先に登場したニコデモとイエスが出会った場面にも、この同じ単語が出てきます。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3:3)。単に目を通して刺激的に見るだけではない、たとえば経験すること、感覚で捉えること、心を向けること。それらをせずには「神の国」を見ることができないし、イエスの出来事を「知る」こともできない、ということなのでしょう。
七本目
わたしたちは、日曜日ごとに礼拝を捧げます。本来ユダヤ教の安息日は土曜日でした。あの差し迫った過ぎ越のまつりのクライマックスも土曜日だったのです。しかし教会は、主の復活を記念し、日曜日を「主の日」と定め、その日に礼拝を行ってきました。マグダラのマリアが走り、ペトロともう一人の弟子が走ってたどり着いたあの墓に、イエスの遺体はなかったのです。死には絶望があります。彼らはきっと肩を落として墓から帰ったのでしょう。しかし復活には希望があります。圧倒的な力で人々に重くのしかかった死は、その瞬間力を失ったのです。そしてわたしたちはイエスを「見て、信じ」ることへと招かれたのです。
わたしたちは、日曜日ごとに、復活の主にまみえるのです。経験するのです。一度きりではなく、その経験を重ねるのです。そうやってわたしたちは信じることが出来るようになるでしょう。その時、死の力は消え失せ、まことの希望へとわたしたちは導かれてゆくでしょう。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。死んだ者が復活するという出来事をわたしたちはにわかに信じることが出来ません。しかしわたしたちは、わたしたちの主が復活したことを記念して、毎週の日曜日にこうしてあなたを礼拝し続けています。礼拝を捧げるという行為の中で、いつの日にか、あなたの聖霊によってわたしたちに全てのことを覚らせてください。わたしたちはその日が来ることを信じて待ち続けます。その日々をどうぞ支えてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。